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鹿児島ラーメンみよし家さんの『かいろす通信』第23号 牧水と啄木 [読書感想文]

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濱田尚吾絵画展 への道中で立ち寄った 鹿児島ラーメン みよし家 牧之原店(ドライブイン) さん。

店内に無料で置いてあった かいろす通信 36号 は、みよし家さんの許可を頂いてブログに書きました

その時、掲載許可のメールをもらって嬉しくて妻に「書いていいって!」と伝えたところ、一言。

「バックナンバーってないのかな?」

面白かったから他にも読みたいと言うのです。

 

なるほど、しっかりしてますな~!

すぐにみよし家さんバックナンバーを入手できないか問い合わせ。

すると、「お送りしたいと思います」「ご住所をお知らせ下さい」とのこと。

ありがたいですね~さすがは ちゃんとやるみよし家さん

で、送られてきたのが今回の挿絵ということでございます。

 

その後みよし家さんとやり取りをして、バックナンバーを頂いたことに関してと、

36号と同様の書き方でブログに書くことに関して、「どうぞよろしいです」との許可も頂きました。

ということで、今回は 第23号(平成20年 新緑) の全文をご紹介したいと思います。

 

-------------かいろす通信 紙面 ここから----------------

かいろす通信

牧水と啄木

 初夏の風が吹いてきました。夏の予感を感じさせる季節です。大正時代、旅と日本の四季をこよなく愛した歌人がいました。今回のかいろす通信は、歌人若山牧水を取り上げてみたいと思います。

 牧水は宮崎県日向市の出身です。医師の家庭に生まれますが早稲田大学文学部に進学し、東京で石川啄木などど出会っています。牧水は破天荒な部分も合わせ持っています。旅を愛し各所で歌を詠み、日本各地に彼の歌碑があるのですが、とにかく大の酒好きで、一日一升程度の酒を呑んでいたと伝わっています。43才の若さで病没しますが、その大きな要因となったのは肝硬変。夏の暑い盛りに死亡したのにも関わらず、死後暫く経っても死体から腐臭がしなかったため、「生きたままアルコール漬けになったのでは」と、医師を驚嘆させた、との逸話があるほどです。

 牧水は『樹木とその葉』という随筆を残していますが、その中に「若葉の頃と旅」という項があります。

 私は若葉の頃になれば旅をおもふといふことを書いた。さういふ言葉の裏にはその季節に啼く鳥の聲、山ふかく棲むいろいろな鳥の啼聲をおもふ心がかなり多分に含まれてゐる。(中略)
 山深いところなどで不圖(ふと)聞きつけた松風の音や遠い谷川のひゞきに我等はともすると自分の寄る邊(べ)ない心の姿を見るおもひのすることがある。然し、松風や水のひゞきは終いに餘りに冷たく、餘りに寄る邊ないおもひがしないではない。それに比べて私は遥かにこれらの鳥の啼く音に親しみを持つのである。カツコウ、カツコウと啼くあの靜かな寂しい暖かい聲を聞いてゐると、どうしても私は眼を瞑(と)じ頭を垂れ、其處(そこ)に自分の心の迷ひ出でて居る寂しさ暖かさを覺えずにはゐられないのだ。

うき我を さびしがらせよ 閑古鳥

 芭蕉の閑古鳥はたしかに郭公鳥(かっこうどり)の事であれねばならぬ。東北の或る地方ではまたこの鳥を豆蒔鳥(まめまきどり)とも呼ぶさうだ。ソレあの鳥が啼く、豆を蒔けといふのであらう。いゝ名だとおもふ。

 風流としか言いようのない文章です。鳥の声は寂しく温かいものだ。だから芭蕉の句の閑古鳥はカッコー鳥に違いない、というのです。鳥の声が聞こえたら豆を蒔け、という程人々が鳥を愛しているのは美しいことだとも言っています。繰り返しますが、風流としか言いようがありません。

同時代人の石川啄木の歌風と正反対です。啄木もすぐれた歌人ですが、およそ風流とは言い難い生き様です。歌への情熱から妻子と離れて放浪し、貧窮。社会主義思想に傾倒したりします。牧水と交流し、中学で一学年上であった金田一京助の援助を受け、生計のための小説を売り込むが成功せず。逼迫した生活の中、後に広く知れ渡る歌を作ります。が、26才の若さで病死。その死を見とったのが妻、父、友人の若山牧水でした。彼の死の一ヵ月前には母が病死しており、しかも没後二ヵ月後に妻節子が女児を出産しています。その直後に、第二歌集『悲しき玩具』が刊行されます。啄木の第一歌集『一握の砂』に掲載されている代表作です。

 我を愛する歌

東海の 小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

たはむれに 母を背負ひて
そのあまり 軽きに泣きて
三歩あゆまず

 風流な歌風の若山牧水に比べて、苦しくなるような歌です。啄木の葬儀には夏目漱石も参列しており、貴重な才能の夭折を悼んでいます。

 牧水の方は学校を卒業後、新聞社に勤務するも五ヵ月で退社し、明治44年26才で創作社を興し詩歌雑誌「創作」を主宰。以後雑誌発刊と創作活動に入ります。啄木を見とった明治45年に大恋愛の末に結婚。酒と旅を愛し、旅にあってマスコミなどからも寄稿を頼まれ随筆や歌を残します。そのすぐれた歌は地元の人々に愛され、多くの歌碑が残されます。

 静岡県沼津、千本松原の景観をこよなく愛し、一家で沼津に移住。大正15年には県が計画した千本松原伐採に猛反対して新聞に寄稿するなど先頭に立って反対運動を盛り上げ、計画を断念させています。

 牧水は、自然とは四季の移り変わりであると感じていたように思います。先に引用した「若葉の頃と旅」のラストの一文を紹介したいと思います。「この感性が日本の美なんだよ」という牧水の声が聞こえてくるような美しい文章です。この空気感を感じることが、日本人の喜びなのかも知れません。

 仰ぎ見る山の上の雲の輝きは何と云つてももう夏である。

 牧水は啄木よりは長命でしたがそれでも43という若さで亡くなりました。彼の死後、詩歌雑誌「創作」は歌人であった妻・喜志子により受け継がれました。

-------------かいろす通信 紙面 ここまで----------------

 

「いや~、漢字の変換大変!」

あ、大変失礼いたしました。

いかがでしたでしょうか。(←自分が書いたような言い草 ^^; )

偉人には多い気がしますが、牧水も酒好きだったんですね。

36号の前島密に続いて、モノを知らない私は牧水も啄木も、歌人であることぐらいしか知りませんでした。

こんな風に短くまとめてくれていてしかも分かりやすい文章。

2人を対比させて書いてくれていることもあって、人物像が生き生きと伝わってきました。

 

歌という日本の感性を突き詰めた世界で活躍した、風流な牧水と苦しみの啄木。

こういった例は少なくないですが、同時代に正反対の生き様をしてもそれぞれに突き詰めて名を残す。

自分は自分のままでいいんだと、

ただそれを突き詰めればいいんだと言われたような気がしました。

私も「宮崎出身の~」と後に言われるくらい、

自分なりの感性を突き詰めていかなければと決意を新たにした次第です。

 

今回はかいろす通信のバックナンバーを頂いたことへの感謝の気持ちが少しでも薄れない内に、

お知らせを兼ねてどれか一つの号をご紹介したくて、ざ~っとタイトルだけ目を通して、第23号を選んで書きました。

残りについては子供と一緒に、最初の号からゆっくり読んでいきたいと思います。

みよし家さん、本当にどうもありがとうございました!

私もみよし家さんに負けないくらい、ちゃんとやっていきたいと思います。

 

■ オマケ

ところで、私が23号を選んだのは何故だと思います?

先日受けた宮崎人検定の問2、

問 2 宮崎出身の有名な歌人はだれ?

①石井十次
②武者小路実篤
③小村寿太郎
④若山牧水

の答えを、私は間違えていたからです!

まあ、他の問題もいっぱい間違えたんですが、若山牧水は印象に残りました。

ちなみに検定結果は10点満点で4点・・・。(解答を見たら、5問は合ってた気がするんだけど ^^; )

感性を磨くと同時に、抜き打ちの宮崎人検定的なモノが次にあっても、

満点を取れるぐらいに宮崎と向き合っていきたいと思う、sakashushu でございました。

 


 

いつも最後まで読んでいただいてありがとうございますm(__)m

何度も見に来ていただけることが、間違いなく私の原動力となっています(^_^)

またお越しくださいませませ!

 


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