エアコンの修理がきっかけで、いつもと同じことを考えていた [想い]
(チャチぃ挿絵でゴメンなさい!)
昨日のポストに絡むことで、いつもと同じようにあることを考えている自分がいたので、
どんな文章になるのかハッキリ分からないが、とりあえず書いてみることにした。
きっかけになったのはエアコンの修理をされた方の話。
内機の基盤が悪いのではとの当たりを付けた時に、
「最近のはデリケートになってきてるんですよね~。」
と言われていた。
私の実家には、小学生の頃から居座るエアコンがある。
(冒頭の挿絵で対決しているもの。もちろん左 ^^; )
私は現在実家の衣料品店勤務で、泊りがけでプログラミングをすることもある。
夏にはそのエアコンのお世話になるが、以前私は facebook でこんな投稿をしていた。
今日は実家の自分の部屋に泊まってプログラミング。
30年物のエアコンは微調整が効かず、つけると激さむ!
でも消すとすぐ部屋が暑くなる。
リモコンも壁に据付だから、頻繁に立ってつけたり消したり・・・。
今日は集中して作業できませんでした。
私のバイト時代の先輩は、
当時の家電はまだ重厚長大の思想で、デリカシーないけどなかなか壊れない(笑)これも偉大なる日本のモノづくり。
とのコメントを残してくれた。
実はこの時も、 あのことを思い出していた。
一昨日の修理も、facebook 投稿でも偶然エアコンだったが、いつも思い出すあのことはエアコンの話っていう訳ではない・・。
思い出すことっていうのは、私が中学生の頃の授業でのことだ。
社会の授業で、そもそもはナイロンができたことについての話だったろうか、
正直に言うと何が元の話だったかハッキリとは覚えていない。
ただ話の中で、先生がこんな内容のことを言われた。
「靴下っていうもんが最初に出来た時は、すばらしく頑丈なものができた。」
「それこそ一回買ったら一生買い替えんでいいくらい頑丈なやつよ。」
「でもそれじゃ、売る側が一回売ったらそれっきりやろ?」
「だから、わざと弱くした。」
「わざと弱く、破れるようにして、何回も売れるようにしてるんだぞ!」
私は衝撃を受けた。
直感的に「そんなの間違ってる!」と思った。
深い思慮があった訳じゃなく、本当に直感的なものだ。
それから、何かきっかけがある度にそのことを思い出す。
そして今でも、「何とかならないものか」と密かに思っているのだ。
(ここに書いたから、密かじゃ無くなっちゃいましたけどね ^^; )
何年か前に、
「(社会の)先生の言われたことはどのぐらい知れ渡ったことなのだろうか」
と思って、ネットで検索してみたことがある。
私の検索し方が下手な為か、なかなかそういう情報がヒットしなかった。
しかし唯一、この記事に辿り着いた。
フリーメンテナンスはエンジニア全員の理想だが、経営者の理想ではなかったのだ。
いまでもメーカーがその気になればやたらと寿命の長いエンジンを作ることはすぐに出来る。
だけど、わざとデチューンしているのだ。
デュポンはストッキング用のナイロン繊維をわざと弱く作ってデンセンするようにした。ナイロン繊維は、パラシュートコードにも使われているように非常に強い性質を持っているのに、だ。
ゼロックスはコピー機を売り切りではなく、コピー枚数に応じた課金をした。
ソーラー湯沸し装置は定期メンテを前提に、寿命の短い部品だけで作られている。メンテ代金で節約した光熱費が相殺されるので、よほど電気を引くのが困難な場所以外では普及しなかった。(もちろん電力会社と政府の徹底的な妨害工作もあったのだが) サーバーや商用ソフトは「年間保守料金」という形でお金を取りつづける。
どれもこれもデチューンすることによって未来永劫にわたって商売を続けられるようにしているのだ。
社会の先生の靴下の話は、デュポンのストッキングのことだったのかな。
今でもこの記事は私のGoogleブックマークに入っている。
ページが無くなっても見返せるように、ローカルにも保存している。
念のため、昨日修理したエアコンがデリケートなのも「絶対わざとだ」と言いたい訳じゃない。
故障の原因は内機の基盤じゃないかって絞り込んだ時に、
「内機と外機のそれぞれに基盤があって、それが常に遣り取りしてて」
って話があって、その後で最近のエアコンはデリケートという単語が出た。
私はその単語から単純に実家のエアコンを思い出して、いつものように連想したっていうだけだ。
実家のエアコンは30年以上修理もせずに未だに壊れることなく動いている。
でも、調整が効かないせいで作業に支障を来たすし、ちょくちょくブレーカー落としちゃうくらいに電気も食う。
今故障中のエアコンは、5年経たずにやっかいな壊れ方をした。
でも、運転時の室内の快適さは実家のとは比較にならないし、エコの具合もそれこそ何倍も違うのだろう。
それでも、その都度、足りない頭で支離滅裂になりながら何度も考える。
わざとデチューンは、誰か一人の仕業って訳でもないだろう。
一つ一つは細かい必要性があってそのの結果、
積み重なって随所に生まれてくる、むしろ自然発生的な要素なのかもしれない。
ただ、もしそうだとしても・・・。
モノがデリケートになってしまった状態を仕方ないと切り捨てるんじゃなく、
それでいて頑丈なモノが出て来て勝ち残って行くのが健全な社会なんじゃなかろうか。
長期延長保証自体は素晴らしいが、万が一それを成り立たせるために製品を弱くするようなことがあったとしたら(頑丈になり過ぎると長期延長保証に入る人がいなくなるから とか)、それはやっぱり違うんじゃなかろうか。
モノが流通して、そこにお金(価値)が発生する。
そのこと自体は何の問題も無い。
ただ、流通させること自体が目的になってしまったら本末転倒だと感じる。
もしかしたら、いいモノが残って行くのは自然の流れで、実は今でもまだその途中段階にあるから問題のように見えてしまうだけなのかもしれない。
いずれ勝手にいい方向に変わって行くのかもしれない。
だから私なんぞが無い知恵を絞って考えても無駄なのかもしれない。
それでも、それでもやっぱりいつも、私は思ってしまうんです。
「何とかならないものか」と。
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